2017年03月26日

仮設住宅暮らし

[気仙沼出向生活1399日目 残り6日]

4年間の気仙沼での生活の中で貴重な経験だったと思うことの1つに仮設住宅での過ごした経験というのがある。

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最初仮設住宅に住むと聞かされて正直ビックリしたのを覚えてる。
しかもその仮設住宅すらも本来は被災者が住むところであり、外から来るものが住むべきでないという考えが基本なので『特例だ』というふうに言われたのを覚えてる。
自分以外は津波で家を流された方しか住んでないところで生活していくという緊張感は最初相当重かった。
東北が初めての自分にとって、そしてこの仕事がどんなものになるかが全く想像できない自分にとっては物凄く不安になったのを覚えてる。
山奥にある仮設住宅だったので他に住んでる人はほとんどおらず、薄い壁は隣どころかその隣の部屋の音も聞こえるし、

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夜になると獣の声や仮設を何かが叩く音が聞こえたり、

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部屋の中に虫や蜘蛛の巣があるのは日常だし、

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冬は寒すぎて仕事から遅くに帰って来たらカーテンが凍ってたり、ある日帰って来たらこんな張り紙貼ってたり、、

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極め付けは大雪の日に道が凍って車ごと畑に突っ込んだこともあったり、

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最初の数ヶ月は日常になれるのが精一杯で正直自分が支援職員と言われるのが辛かった。実際は自分が支援されてる方だったから。。

ただ結果的にはその生活があったから今があると今は思う。
思い返すと当時出会った方に自己紹介をすると最初はそんなにリアクションをいただけないことが多かったが、

「今、仮設に住んでまして、、」

と伝えると途端にビックリした顔になり感謝されてその方との仲が急速に深まったのを思い出す。
当時いろんな方々が全国から復興支援に来ていた中で、地元から見れば支援者と言いながらもいい方もいれば悪く見える方もいるようで一概にウエルカムなムードでなかったが、仮設住宅に住んでるということをお伝えすると途端に、

「そうなの?そこまでしてくれて、本当にありがとう。」

となって会話が急に親しくなってその後のお付き合いに発展することが多かった。
また仮設には談話室という住民のコミュニティスペースが用意されていて、そこで時折飲み会が開かれた。

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ほとんどが高齢者な中、当時30代の私は息子を見るような目で可愛がって頂いたが、その場からもらった震災の情報やノウハウもその後を思えば本当に大きかった。
個人的にはいつも悩んだら一番濃い経験ができる選択肢が結果的に一番本質的だと思って生きてきた自分からするとこの経験は本質的だったと思う。
結局この山奥の仮設住宅には約1000日住むことになったが今でもここに住めたことが気仙沼での生活をより充実したものにしてくれて本当に感謝している。

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posted by インディ at 09:26| 宮城 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月25日

この経験で得た3つのこと

[気仙沼出向生活1398日目 残り7日]

昨日は毎朝のお勤めテレビ会議ブイキューブでのイニシアティブ出向者全員と発起人の方々の集まる最後の集まり。
東京、仙台、気仙沼、大船渡、釜石を結んで何があっても4年間毎朝あったこのテレビ会議。
いろいろ送別会などありましたがこのテレビ越しで最後の挨拶をするというのが実は今までの何よりもこの出向が終わるんだなあと感じる瞬間のように思えた。
考えてみれば経済同友会各企業から一人ずつ出向してきた人同士が市役所でチーム組んで毎日テレビ会議をしながらプロジェクトにあたるってメチャクチャ不自然な光景で多分もう2度と経験することのない機会のように思う。
そう言えば4年前初めての日は回線の調子が悪く、初めて繋がった時は、おぉー!、って騒いだだけだったのを思い出すし(笑)、市役所生活の最初の一週間があまりに慣れなくて気仙沼、大船渡、釜石メンバー全員で急遽金曜夜に集まって

「そっちはどうよ?」

と飲んだのもいい思い出(笑)
最後の挨拶で泣かれる方もいたり、本当に大きな成長の機会だったことを話される方がいたり感慨深い場。
その中で最後に言われたセリフが感慨深かった。

「君たちはこの日常の会社の業務では絶対にできない出向経験で3つのことを手に入れた。ひとつは仕事。この仕事は君たちにしかできないもの。ふたつ目は第二の故郷。この街は皆にとってかけがけのない街になった。三つ目はやった人間にしか見えない風景。その風景は本人にしか見えないしやった人間にしかわからない。」

確かにそう思う。
この3つはこの機会でなければいただけなかった経験であり財産だと思う。

そして夜は市役所の方々からの送別会。
民間から来た世にも奇妙な集団を送り出してくれた市の方々にも感謝です。
写真はお世話になった津田参事。
実は同じトラキチということがわかりました、、^_^

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posted by インディ at 11:19| 宮城 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月22日

「気仙沼出向を終えるにあたり一番の気づきは?と聞かれたら、、

[気仙沼出向生活1396日目 残り9日]

「この気仙沼という地域に入っての出向生活で一番大きかった気づきは一言で言うと何か?」

必ず聞かれる質問であり、一番難しい質問。
都会暮らしで初めて地域に入った方や被災地での生活を経験した方や何て答えるだろうか?
自分にとってのこの答えは自身がこの出向での生活で一番ハッとなったこの一枚のポンチ絵。

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日本人の選択基準の変遷をまとめたペラ1の資料。
@1950-60年代は高度経済成長時代に入る日本人の価値観は『良いか悪いか』という選択で、物質的繁栄を求めマジョリティが大本営の決めた『良い』を選択する時代だった。

A1970-80年代に入るとバブルに突入し、物質的繁栄だけでは飽き足らない港の差を求め、そこに個性というセンスが生まれ個人の『好き・嫌い』が選択の基準となる時代に移る。

B1990-2000年代に入るとバブルが弾け失われた10年と言われる時代に突入し、皆が「自分は勝ち組に残る」ためと個人による『勝ち負け』が基準となり、『独り勝ち』という言葉が非常に憧れる言葉になった。
(自分はこの時期に就職したので社会人生活はまんまこの価値観で生きていた)

ところが、
C2010年を超え、さらに東日本大震災を超えるとまた価値観が代わり今は人を動かす基準が共感をベースとした『賛成・反対』という基準となり、裏返せば『勝者』や『富』のオーダーで動かない時代になって来ている、

という話。
最初聞いたとき思わずハッとしたのを覚えてる。
この一枚に自分が諸々感じたこの被災地での4年の一番の経験と気づきが凝縮されてるように感じる。
気仙沼に来る前の自分はまさにBの人間。
そこになんとなく疑問を抱きながら生きてた時に気仙沼の仮設住宅に住む生活が始まった。
そして始まった気仙沼の生活では、人が動く基準の多くがCのように感じる。
疑り深い自分は最初は正直信用してなかったところがあったが、どうも自分の方が時代錯誤で特に若い方を中心に世の中はCに移ってるんだなあ、と日々日々実感する。
「時代が変わってる」と気づいたこと。
この感覚をしばらくうまく言えなかったところに上のポンチ絵を見せられて思わずそれだ、と驚いたのがちょうど一年前。
教えてくれたのはスイスツェルマットで自分に地域経営を教えてくれた師匠、山田桂一郎さん。
この経験が個人的にはこの気仙沼を通じた地域の生活で一番気づいたことのように思う。
そしてこれはひょっとすれば都会より地域の方が感じやすい事かもしれないとも思う
(都会でも知らないだけであるのかもしれないが)
いつか書こう思っていた話ですが、残り一桁になった出向生活なので備忘録的に記しておこうと思う。
posted by インディ at 23:49| 宮城 ☀| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする